なまちBITTSTADTで演奏してた。ぼくはギター装置に3つのジャック穴あけて、そのプラグはMS-20の右下SIGNAL INに突っ込んで。1台のギターから3台のMS-20に。ヘヴィゲージを引っ掻いてはパッチ線半挿しひねり倒して。。おわってから駆け寄ってきたれんちゅーの中に「おまへのMS-20はいくらで買ったんだ?」ってmヤツがいた、たしかその頃は中古で8万とかだったかと、っつーと、「だから3台も持ってきたんか、乱暴に扱いやがって、云々」と。
その頃ヨーロッパで日本製アナログシンセは、日本で出回ってる価格の少なくとも数倍の値段がついている。そして、ぼくらが目ん玉ひっtっちゃくり返すよーな値段だった欧米のシンセは、すんげー安く売ってるってことに気付いちゃた訳です、その場で知ったわけです。日本と外国では国産と外国製のシンセ価格がまっさかさまに巨大に逆転、ProphetはいらんJUPITERが夢だ=高いから。っていいキッッタ奴、日本製とは如何になんなのか・・
その2年後、ワンノート専用ラジヲ局にチューニングしたアウトバーンをっつっきってパリに向かったぼくらは、ドラマーのEmikoちゃんにAndrewを紹介された、パリの日本人に紹介されたそのイギリス人は、ぼくの最大のアイドルSTOCK, HAUSEN AND WALKMANのAndrew Sharpleyだった。EmikoちゃんとAndrewは、その2年後ぼくの自宅に泊まりにきてくれて、いっしょに日本ツアーすることになる。
外国での日本製評価と、STOCK, HAUSEN。
ドイツにはシュトックハウゼンがいた。まだ生きていた。だから、STOCK, HAUSENとした。
日本にはTOMITAがいた。まだ生きていた。
その10年後、TOMITAにご相談を受けるという、アリ得ない好日を頂戴することになる。『ヒューマンクロックで20%以上のリタルダンド追従なんて、アリ得る話しなの?』と。とり急ぎ冨田先生にはシンドラのキックをトリガーにシーケンス噛ませ、rit.どころか破格のアチュレランドをLIVEで実現していた20年前のビデオ「NO ROOM」をご覧頂いた。『なんだ、できるんぢゃん』、と。平沢さんの曲で、システムは僕が作っていた。機能として出来るモノと、現場で使えるモノとの、決定的な違いを、冨田先生は瞬時に見抜き。
それから『オーケストラとコンピュータってどうやって共存させる?』と、看護婦の衣装を着させたオケとの共演ビデオをご覧頂いた。これまた平沢さんソロでのバック期のだけど、オーケストラを背中にしょって、僕がカーツウェルっでフレーズサンプリングを叩いてた。
でもって、70年万博の話しが出た。ぼくは幼稚園の卒園式を抜け出し、伊丹へとぶ、osakaそこで全てを体験しちゃった。電子音楽の全てがそこにあった、ので。だから、ぼくは6歳以降余生だと思ってる、小学校以降は老後なの。そこに全部あったから、聞いちゃったから、。みたいなお話しをさせて頂いたかと、そこには冨田先生の音楽もあった、ことを知る。『そこでスイッチト・オン・バッハ聞いちゃってね。』『でも、もっと出来ると思った』と、。凄い。直接聞けた、レジェンダリーな著述で拝見したお言葉そのままに、。1991年、p-modelの解凍というのがある、その前に、解凍しないか?って話しがあった、そのとき、えらそうにいろいろ言ったぼくは、平沢さんから「スイッチト・オン・バッハ聞け」といわれる、買った。その頃、音楽を買うなんてこと、まず、なかった。しょうじきなとこ、音楽作るのに商品として売ってる音楽聞く必要なんて、ほぼほぼ感じてなかったし、むしろ、ストラヴィンスキーいうとこの「商品価値のつく個人語法、かつ同時代性を有する未聴感」の、ぢゃまだ、くらひに想ってた。、今でも、のに、でも買った。で、はっきしいって、良くなかった、損したと想った、損しただけでなくて、買っちゃったので元取んなきゃって思って「2D OR NOT 2D」って曲つくることになる。なにやら繋がり過ぎてる、オカシイゾこれわ。無理やりなのか?
だから、冨田先生とご一緒できたことって、平沢さんのお陰げだったって、ますます感謝が、、、、、というか。「2D or not 2D」もそーだけど、そのあとのぼくのソロ作も、白玉に対する怨念、不必要感からきてる、ぜったい、ぜたい、それ、だった、けど、思いあがってた。やはり、ぼくは白玉の音響パラノイアお二人にぉ遣えしたことになる、そばで見ちゃったりできちゃったりつまみさわっちゃったりしてたもんだから、心底わかる、いやわかってない、それでもわかる、心底、恋は異文化交流、だと。
冨田先生の作品には引用が多い、多いけど、クラシック音楽っつーんなら、そもそも中世以降すくなくともしばらくは、パクリ以外は認められてなかった、オリジナル作ったら死刑だった、つーのがそもそもクラシックであり、グレゴリアンチャントのそれであり、そんなことよりも、教会の石の響きのほーがでんでん重要だった、ハズ、で。音楽の理論史は戦争-建築-万博-サミットといった流れでできてる。ってぼくは思ってて、イギリスvsフランスの百年戦争のおかげでドミソができた、し、教会のおかげで限定進行音が、で、リバーブタイムが長い石造り建築内ぢゃ、前の音が残っちゃうんで、次の音はゼロビートぢゃないと気持ち悪い。よって、純正調で積み上げてく、と、複雑な和音はヴォルフを出すから、結果的に簡単な堆積音しか使えなくなるし〜・・・そのあとも延々と、、100年ごとに1音ずつ
mでもってなして作詞と作曲が同額なんだ?って思ってた、いまでも、で、編曲はただなんか!?って。、編曲に著作権が無いのは、アメリカ最初の著作権管理事業者ASCAPを創設したひとが右手でしかピアノを弾けなかった、から。それだけ、のこと。つくづくユニオンなアメリカ人種と、つくづく年金なヨーロッパ人種とのトリックで、文化的非対称性が形成されちゃってる、と。その力が弱まってきてるワケわ社会的階層の変化、表現の脱神秘化、芸人によるルールの変換、とか、いわれてる?けど、そーなの?か?最低20年の特殊訓練を受けた人間が100人で合奏する再生装置としての超奇形態=オーケストラをそれでも日本に残す意味合いって、何さ?答へ、はめっちゃさりげない、さりげなさすぎる宮沢賢治氏の引用からはじまる、それも3つの音だけでできている、マエストロが覗くスコアには“無伴奏”と記してある、それ。巨大なユニバースすぎて、引用がどーとか、だからどーしたとか、ってな気にしかならん。M1。。
5度平行のアレンジ曲がある、それはぼくらの中でM6とよばれ、ぼくはお休みの曲で。ただステージで、いつも感じてた。ホルンが4本で。5度平行は和声法での代表的な禁則で、それでも定旋律=グレゴリアンチャントからハミダス泣き言のためのオルガヌム、或いは、スモークをオンザウォーターにする為のパワーコード、そのどっちでもでんでんない、なんて言ったら、な、豊かさ、に、ぼくはそのM6が、、、
2012年イーハトーヴ交響曲のシステム構築は、なんつーか、20年前30年前にぼくてきには実現済みのすでに出来てる、出来てた。っていっても、そのローカライズ設計は、ドーパミン出っぱなしで、昼夜問わず冨田先生とも蜜にご連絡取り合いの半年で、すっげぇ、そのこと、夜通しとゆーよりも、時間に関係なく、時間に囚われず仕事できてること、を、手塚治さんともそーだったんだよなーとか仰いながら、すっげ、そのこと自体を、内容をすげ嬉しく思って頂いていたよーなと、感じてまして。とゆーか、はっきし言って、結局のところ、システムに興味あるオーディエンスはゼロだと思ってた方が正解で、むしろ、そこ超えてなきゃ無意味っつーか、制御装置や技術仕様などは伝わらない方が成功。なんだけど、それでも、理解者がもし、いてくれたら。の、最大の理解者が冨田先生でいてくれたことは、なんとも、何某か乗り越える度にとにかく抜群に喜んでくれて、それはもぉ。。何度も日本酒を、まれにワインを、オイスターバーのカウンターで待ち合わせて、。更に。
で、『ドクターコッペリウス!』最初にお話し伺ったのは、イーハトーヴ交響曲初演の翌年、2013年の正月だった。と思ふ。イーハトーヴが最後って言ってたのに、とは、思ってたけど誰も言う、必要、すら無かった。アイディアが降りまくってるのは、もはやハッキリと明らかで。。
それから、衛星を飛ばしてリフレックスミラー屈折させて月面にさー、とか、そんな話しを3年ほど
きょねんの北京と盛岡を経て、ことしのお正月からは、グングン加速してきた、制作も乗ってきてると薫り、ラスト1ヶ月ほど、ほぼほぼ毎週お会いしていたとこで、残ってる作業を順に潰していってるな、とは、なんだか実現するための、その方法を教えて頂いてるよーな気がして。
全体構成はたしか、3月30日デモスケッチで頂いた。たしかというか、はっきりとその日=ぼくのたんぢょうび、すぐに小節番号を振りなおして、リハ譜とともに深みを探った。それから、じっさい演奏する為の楽器編成や、プロットからの展開や、キャスティングや、PAの具体、そんなお話しを延々とさせて頂いてた、4月7日の夜半、「決めました、よろしく頼む」と。のお電話、なんだろーと、思った、たぶん、ぼく含めて3人ほどに同じこと伝えたのでは?と、すぐ思ったんです。そーいえば、何万人とかあつめて野外で巨大すぎるサウンドクラウドをやってたときも、4人とか極数人だけで中身作ってたと仰ってて、具体的にお名前あげて、しかも、なんだか似てる、いやいや僭越すぎる。でもなんだか似てる、。。コッペリウスの公演は4月22日に発表された、冨田先生84歳のお誕生日だった、その前日も冨田先生からご教示を受けた、別れ際タクシーから顔をだし「よろしく頼みます」といわれ光栄なのか恐ろしくも、堆積してる確認作業と構築をヒヤヒヤもんで潰していって、、、、それでも、みつかっちゃったねー、とか仰いつつの、結局、先生の御前で僕が板書きした冨田先生最後の言葉は『プラネットナイン』。
理屈でくるひとには理屈でかえせばいいし、暴力のひとにも暴力で大丈夫だけど、優しい方にはどうにも叶わない、どうやっても、優しくしてくれているまま、仕事がダメなら切られるだけで。見てるとこも違えば、たぶん、見えてるものも、ましてや耳の奥底で鳴ってる音も、違ってたんだろーな、。お優しい方ならではの本物すぎる厳しさ恐ろしさは、いつもヒシヒシ伝わってました。。
先月の編成打合せ時、冨田先生から全音音階の話しが出まして、たぶんドビッシーを想定してでのことだと思ったんだけど、その流れでぼくは内声の積み方のご相談をさせて頂いて、それはトリスタンとかもあってのことだったんだけど、それについて冨田先生が「どうせ内声なんて誰も聞いてないから大丈夫だよ」とのお言葉が出て、それこそ、ぼくわ椅子からズリ落ちまして。
冨田先生は、トヨタやホンダやソニーやトーシバ(おそらく隼戦闘機も)が世界に見せてきたその精密さや品質に、オリジネーターの凄みを加えてジャパンクオリティを世界に知らしめてくださった大恩人で、世界の電子音楽界が喪に服してるのも如何にも。その緻密さの極限を身を持って身を削って作品化されてきた至宝御方自ら、内声なんてどうでもよい、とは、重みがありすぎ恐怖で震えた、のです。
要は、音楽ってのは、そんなもんではなくて、もっとエコーの成分だったり、フィルターのエンベローブだったり、だろ?。みたいなことを教えられた気がしまして。ぼ、く、は最後の弟子になれたんだろーか
冨田勲先生が、2016年5月5日こどもの日に亡くなった